勘助庵跡かんすけあんあと



 坂本町から勘助の道を澄水山へ向かって登ると、頂上近くの峠にあります。澄水山山頂は、航空局の施設のため立ち入りはできません。

 「明治、大正期に澄水山頂に居住した奇人で通称勘助と言った。素性を知る者はなかったが、数年前、隣県西伯郡余子の縁者と称する人が追跡調査して勘助庵跡へ鎮魂の碑を建てた。真偽取り混ぜて判断すると、勘助は若い頃、松江藩家老神谷源五郎の下僕として仕え、姫君と恋愛し、身分違いのため篤志を以て領内追放となり、澄水山に妻女と娘を伴って隠棲したといわれている。その後、娘は紡績工場へ女工として出稼ぎ、病を得て死亡した。加えて妻女も生活に堪えず離別。勘助は炭焼き、山菜などで麓の坂本、福原、加賀で交易し、日糧を得て暮らした。大正15年(1926)3月11日帰庵の途次、にわかに降り出した季節外れの大雪のため居庵200mの所までたどりつきながら遭難死した。推定年齢は既に米寿を越えていたろうといわれる。」(ふるさと持田の彩)


勘助庵跡 勘助庵跡の石碑



松江の山を歩く