一畑中道の栞


大野公民館でいただいた資料の転載です。

(注)町石(丁石)とは寺院の参拝者のために一丁(109メートル)毎に建てた石で、地蔵菩薩を刻むことが多いので「一町地蔵さん」として親しまれていた。一畑中道のように八十七基も続いているのは珍しい。正面に「◯◯丁」、左側面に寄進者名が刻まれている。
(注)中道には一町地蔵の他に、不幸な人たちのための供養地蔵が道端に点々とある。昔の人たちのやさしい心がしのばれる。

○中道起点の道標 松江から大社道と一緒であった道がここで別れた。とっくり形の石の道標で正面に「右一畑中道」、左側に「左大社」と刻まれている。現在、長江公民館に置かれている(注(サイト管理人) 現在は元の場所近くに置かれている。)。一畑中道という名称の唯一の物的証拠として貴重。

○薬師堂 昔あった常楽寺の名残りの堂宇。八十七町石がここに移されている。

○丹後の国惣助を祀った地蔵祠 安政六年、附近の山桃の木の下で倒れ、下半身を山犬に喰われて死んだ惣助の供養のために建立した地蔵祠。今でも下半身の病に悩む人たちの信仰の対象となっている。

○井神の地蔵祠 八十丁町石と「文化七年(1810)と刻まれた地蔵がある。すぐそばに屋号を「豆腐屋」という、往時一畑参拝客のための茶店を営んだ家がある。

○井神の一畑燈籠 竿に「一畑寺是ヨリ二里七丁」と刻んである。

○高原池 四季折々に美しい。堤防下に「七十九丁」の町石がある。

○本谷の道標 本谷会館の横に「左一畑寺」と刻まれた道標がある。長らく倒れていたのが五十六年暮に地元の人の協力で起された。中道をはさんで北側に中世の戦乱で死んだ武士を埋葬した塚があり、供養の宝篋印塔と地蔵祠がある。北西に望める秋葉山には城があった。

三栗谷池みくりやいけ 南方百メートルの岡に毛利の武将を供養した立派な宝篋印塔がある。

廻田さこだ かたわらに六十五丁町石があり、そこから五十七丁町石までの本宮山(中世、大野氏の居城があった)の山腹を走る中道は往時の中道の風情をそのまま保っている。

○中央堂(大日堂) 大日如来を祭ったお堂で、ここからの宍道湖の眺望は美しい。お堂の前の地蔵の台石に「文化十二年(1815)」、「八十八ヶ所」、「◯◯丁」と刻まれており、地元の人たち十六名の名前も記されているところから、四国八十八所参拝記念碑であると同時に町石(五十五丁)も兼ねているものと見られる。

○内神社(高野宮) 角力で有名な神社。もと本宮山の山頂にあったという。大社造りの本殿も立派だが、3月下旬、境内の杉木立の中のみやまかたばみの群生も見もの。

○「頭取高野山久兵ヱ塔」 五十丁町石と並んでいる。久兵ヱは力士の親方で、現在その子孫(常吉家)の家が近くにあって、遺品も残っているという。

○文化二年の道標 四十七丁町石と並んで二体の地蔵石仏があり、右側のものに「文化二丑◯月建立、いちはた□」と記されている。左側の地蔵が右手で方向を示しているのは珍しい。ここから急な坂道を降り、土居に至る。なお、道標の位置は旧大垣村と大野村の境界に位置している。

○大野越 中腹の中道左手に地蔵祠があり、その下に中世の五輪塔の残欠があり、地蔵祠はその供養のため建立されたものと推定される。峠には二体の地蔵があり、右手のものが四十一丁町石。この町石は五十五年十月頃まで二メートル上にあった。改修で道が低くなったことを物語っている。上根尾に降る坂道の石畳に注目。ここだけでなく中道の随所が往時は石畳で被われていた。

○「三十八丁」町石 草野川を渡るとすぐ「三十八丁」町石がある。この町石は五十六年十二月二十七日発掘、そばの木村酒店の主人が立派に祭っておられる。左面に「木村」というこの町石の寄進者の名前があるが、現在の木村さんの先祖かもしれない。

○わらび床坂 三十七丁から三十三丁あたりまでが中道随一の難所であり、また淋しい所でもあるので、昔から狸や狐が出没するという噂のあったところ。ここ十数年人の往来が全く絶えたので、三十三丁附近は藪が茂り通行不能の状態であったが、五十六年秋伐採された結果、昔の中道の風情が味わえる貴重な場所となった。

○「三十二丁」町石 この町石の正面に「文化十二年」と刻まれてあり、(五十五丁を除いて)町石はいずれも同形で、同時に建立されたものと断定できるところから、その建立年を確定できる貴重な町石である。(文化・文政期は江戸時代の中で人々の暮らしが豊かであった時期)

○疫神祭神籬ひもろぎ 「三十二丁」町石の上の広場にあって、昔、疫病(特に風邪)の流行を防ぐための神事を行うために設けられた。南方の十膳山は大野城の出城のあったところ。

○「右一畑・左松江」の道標 旧大野村と伊野村の境界に位置し、そばに三十一丁町石。ここで初めて中道を辿って来た人の目に一畑寺の遠景が入る。

○片袖地蔵 坂道の中腹に二十九丁町石と並んで立つ。坂道でころんだ人は自分の衣服の片袖をこの地蔵さんに差し上げねばならないとされていたので、この呼称がある。(足下ご用心!!)

○十王堂と中道屋 二十四丁町石と地蔵十王を祭った十王堂(出雲地方ではじわどう・・・・と訛る)が並びその背後の川瀬家は一畑寺大祭(四月八日、九月八日)の日、茶店を出した。そのためか、屋号を中道屋と現在でも呼ばれている。

○一畑燈籠 二十三丁町石の手前にある。(一畑燈籠の特色は自然石造りである。)

○円通寺 一畑寺と同じ臨済宗。入口に「天保五年」の地蔵がある。

○「十八丁」町石 このあたり道路の改修が著しく昔の中道の面影はないが、十八丁町石の前の細い道が昔ながらである。(余程気をつけないと中道と一町地蔵を見失いがちになる。)

○位牌を祀った祠と「十二丁」町石 ここから九丁町石まで、三基の町石が行方不明。

手洗ちょうず 「七丁」町石の手前の川で参拝者が手を洗った習慣からそう呼ばれた。七丁から四丁まで昔ながらの中道である。

○「三丁」町石 ここで石段に出る。傍らに八十三間の石段の寄進記念碑がある。


松江の山を歩く