松江の歴史の径(旧道)を歩く 


 古くは人々の往来のあった径、特に隣村に向かう峠越えの径は新しい車道の開設などにより忘れ去られています。
 第2次世界大戦後の燃料革命により、また木材の自由化により林業が衰退し山へ入ることがなくなり、古い径は藪となって消えていく運命をたどっています。また開発などにより消えていく、そんな古い径(旧道)を訪ね歩いてみます。
 現在の地形図に破線で記された小径も、今では利用されず藪の中に消え去ったものが多くあります。
 地形図に山名の記載のある山を通る峠道などは、登山道としてそれぞれの山のページで記載しています。


   松江市から一畑薬師までの古くからある参拝ルートです。
 
  • 江戸期の山陰道(伯耆街道)(松江〜東出雲町下意東)

 江戸時代の山陰道のうち、松江から米子までは伯耆街道(伯州道)または米子道と呼ばれ、藩主の参勤交代のために整備され、宿駅・本陣・茶屋などが設けられました。これらの公的設備は、一般の商用や社寺参拝の旅行者にも用立てられ、街道の整備が促されて、機能も向上していきました。
 この伯耆街道のうち、松江城三の丸から東出雲町下意東の安来市境までを「島根県歴史の道調査報告書第1集 山陰道Ⅰ」の記載に沿って歩いてみます。
   ・旧山陰道のルート  「島根県歴史の道調査報告書第1集、第2集」の資料から想定されるルートを描いた地理院地図です。
   ・旧山陰道①(三の丸〜八幡町・武内神社)  松江城三の丸跡から八幡町武内神社までの約9kmを歩いた記録です。
   ・旧山陰道②(八幡町・武内神社〜下意東・素鵞神社)  八幡町武内神社前から東出雲町下意東の素鵞神社までの約6kmを歩いた記録です。
   ・旧山陰道③(下意東・素鵞神社〜西荒島・六部塚)  東出雲町下意東の素鵞神社前から安来市西荒島町の六部塚供養塔までの約3kmを歩いた記録です。
 
  • 江戸期の山陰道(石州街道)(竪町〜宍道町)

 江戸時代の山陰道のうち、松江から西へ向かう街道は石州街道と呼ばれました。
 竪町で分岐し西へ向かう石州街道のうち、宍道町の出雲市境までを「島根県歴史の道調査報告書第2集 山陰道Ⅱ」、「宍道町歴史叢書2(歴史の道研究)」の記載に沿って歩いてみます。
   ・旧山陰道のルート  「島根県歴史の道調査報告書第1集、第2集」、宍道町歴史叢書2(歴史の道研究)の資料から想定されるルートを描いた地理院地図です。
   ・旧山陰道④(竪町〜玉造病院)  竪町から玉湯町湯町の玉造病院前までの約6kmを歩いた記録です。
   ・旧山陰道⑤(玉造病院〜西来待小松)  玉湯町湯町の玉造病院前から宍道町西来待の小松までの約8kmを歩いた記録です。
   ・旧山陰道⑥(西来待小松〜伊志見川一里塚)  宍道町西来待の小松から伊志見の一里塚、出雲市境までの約8kmを歩いた記録です。
 
 
  • 松江美保関往還

 江戸時代の松江城から美保関までの約30kmの往還(街道)です。松江本庄間は古代にも道路があり、大草の出雲国庁から枉北道(きたにまがれるみち)として、島根郡の郡家のあった下東川津町納佐付近に達し、手角を経て千酌へ、また郡家から西に曲がり宍道湖の北岸を西進していました。本庄から美保関間は山が多く急峻な崖が張り出し、通行困難な山路を通らなければなりませんでした。松江市街から美保関町まで「島根県歴史の道調査報告書第10集」の記載にそって歩いてみます。
   ・松江美保関往還のルート  「島根県歴史の道調査報告書第10集」からルートを描いた地理院地図です。
   ・松江美保関往還①(三の丸〜持田公民館)  松江城三の丸から持田公民館までの約5kmを歩いた記録です。
   ・松江美保関往還②(持田公民館〜上本庄町)  持田公民館から上本庄町までの約6kmを歩いた記録です。
   ・松江美保関往還③(本庄町〜野原町)  本庄町から野原町までの約1.5kmを歩いた記録です。
   ・松江美保関往還④(野原町〜手角町)  野原町から手角町までの約2.6kmを歩いた記録です。
   ・松江美保関往還⑤(手角町〜美保関町森山)  手角町から美保関町森山までの約5kmを歩いた記録です。
   ・松江美保関往還⑥(美保関町森山〜福浦)  美保関町森山から福浦までの約6kmを歩いた記録です。
   ・松江美保関往還⑦(美保関町福浦〜東長浜)  美保関町福浦から東長浜までの約3.3kmを歩いた記録です。
   ・松江美保関往還⑧(美保関町杢井越〜美保関)  美保関町杢井越から美保関までの約2.5kmを歩いた記録です。
 
  • 松江杵築きづき往還

 江戸時代の松江城から杵築(出雲大社)まで、そして日御碕神社までの約50kmの往還(街道)です。杵築の大社に詣でた人々は、そこから北方二里の地にある島根半島西端の日御碕神社にも詣でるのが普通だったそうです。
 以前は出雲市国富町から北山山麓沿いに西進していた往還が、18世紀近世中期のころ、西代町の西代橋北詰から斐伊川左岸堤防を西進し、武志町・常松町を経、大社町入南を経、堀川を渡って馬場から大鳥居に入るようになってきたそうです。以前の往還は「山手往還」、新しい往還は「土手往還」と呼ばれています。山手往還は平田町からの経路がよくわかりませんが、平田町南本町の湯谷川の北詰から県道232号を西へ進み(「島根県の歴史街道2006」)、国道へ合流し、旅伏駅の手前から山沿いの道へ行く経路を想定しました。土手往還は「島根県歴史の道調査報告書第10集」の記載にそって歩いてみます。この報告集の距離の記載は誤植なのか間違いが多数あります。参考サイト 島根半島を歩く 懐かしい街角
   ・松江杵築往還のルート  「島根県歴史の道調査報告書第10集」からルートを描いた地理院地図です。
   ・松江杵築往還①(三の丸〜打出町)  松江城三の丸から打出町までの約7kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還②(打出町〜秋鹿町)  打出町から秋鹿町までの約4kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還③(秋鹿町〜岡本町)  秋鹿町から岡本町までの約0.8kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還④(岡本町〜出雲市美野町西灘)  岡本町から出雲市美野町西灘までの約5kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還⑤(美野町西灘〜園町苅藻谷)  美野町西灘から園町苅藻谷までの約4kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還⑥(園町苅藻谷〜平田町湯谷川)  園町苅藻谷〜平田町南本町湯谷川までの約6kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還⑦(平田町中町〜高岡町多福寺)  平田町中町湯谷川〜高岡町多福寺までの約8.5kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還⑧(高岡町多福寺〜大社町鑓ヶ崎)  高岡町多福寺〜大社町入南鑓ヶ崎までの約5kmを歩いた記録です。
   ・松江杵築往還⑨(大社町菱根〜大社〜稲佐)  大社町菱根〜大社町杵築北稲佐までの約4kmを歩いた記録です。
 
  • 枉北道きたにまがれるみち

 『出雲國風土記』に「出雲国庁、意宇郡家の北で道は正西道まにしのみち枉北道きたにまがれるみちに分かれて二つの道となる」と記され、正西道は古代山陰道のことで、枉北道は島根半島から隠岐へ続く道です。資料による想定ルートは、現在では不明或いは通れない場所もありますが、できるだけ歩いてみます。
   ・枉北道のルート  枉北道と考えられるルートを地形図に描いてみました。
   ・枉北道①(大草町国庁跡〜矢田町)  国庁跡から矢田町の「朝酌渡」までの現地を歩いた記録です。
   ・枉北道②(朝酌町矢田〜西尾町)  朝酌町の「朝酌渡」から西尾町までの現地を歩いた記録です。
   ・枉北道③(西尾町〜坂本町)  西尾町から坂本町までの現地を歩いた記録です。
   ・枉北道④(坂本町〜枕木町)  坂本町から枕木町までの現地を歩いた記録です。
   ・枉北道⑤(枕木町〜忠山)  枕木町から忠山の峠までの現地を歩いた記録です。
   ・枉北道⑥(忠山〜美保関町千酌)  忠山の峠から美保関町千酌までの現地を歩いた記録です。
 
 

 旧版地形図にある八雲町日吉の岩坂陵墓参考地前から「かんべの里」の尾根を経由し大庭町空山への山越えの旧道です。
 

 旧版地形図にある玉湯町玉造〜布志名への山越えの旧道です。
 

 旧版地形図にある玉湯町玉造〜林道一崎柳原線〜西忌部町堂廻への山越えの旧道です。
 

 旧版地形図にある西忌部町一崎から玉湯町布志名への山越えの旧道です。
 

 旧版地形図にある西忌部町下忌部から玉湯町布志名への山越えの旧道です。
 

 西忌部町〜玉湯町玉造への旧道です。市道脇にも数箇所、一丁地蔵が残っています。
 

 旧版地形図にある八雲町熊野の矢谷から西岩坂の秋吉への山越えの旧道です。
 

 旧版地形図にある乃白町から玉湯町布志名への旧道です。
 

 旧版地形図にある東出雲町須田から岩坂越(星上峠)への旧道です。
 

 旧版地形図にある八雲町東岩坂別所から岩坂越(星上峠)への旧道です。
 

 江戸時代に、城下の生活を支える薪炭等の輸送の幹線として重要な役割を果たした熊野や広瀬に続く道です。八雲町から次項の駒返峠を越えて広瀬へ入ります。
 

 江戸期や明治期の八雲町東岩坂責倉からの広瀬越のルートです。
 

 林道島村線から熊野大社への山越えの径で、地形図には点線で表示されています。
 

 八雲町熊野の稲葉から林道島村線への山越えの径で、旧版地形図に載っている旧道。
 

 一畑電車高ノ宮駅の近くの「一の鳥居」から内神社へ約2kmの参道です。
 

 東生馬町から鹿島町上講武への山越えの旧道です。
 

 旧版地形図にある大海崎町〜大井町への山越えの旧道です。
 

 旧版地形図にある東持田町納蔵西から持田川沿いに峠を越える旧道です。峠付近の一部が植林地の伐採による倒木で通れなくなりました。
 

 旧版地形図にある東持田町納蔵東から現道を北進し、途中から山を上がり、北山縦走路の持田別れへ続く径です。
 

 福富町から朝酌町への山越えの径で、現在の地形図には載っていませんが、昭和30年代の古い地形図には載っています。
 

 矢田町から朝酌町への山越えの径で、現在の地形図には載っていませんが、昭和30年代の古い地形図には載っています。
 

 江戸時代に使われていた嵩山の布自伎美神社へ参拝するための参道で、嵩道と呼ばれた径です。登山道入り口まで歩いてみました。
 

 上本庄町川部から枕木町別所への山越えの径です。
 

 枕木町別所の熊野神社付近から華蔵寺への古い参道ですが、途中で県道によって分断されています。
 

 江戸時代に松江の殿様が華蔵寺へ参拝するときに通ったとされる径です。尾根沿いに多くの石地蔵が残っており、古い参道の面影が残っています。上本庄町川部地区の奥から尾根を上がって行きますが、途中県道枕木山線の旧道で分断されています。
 
 
  • 西川津町市成いちなり古道

 旧版地形図に記載のある第二中学校裏山の古道(巡視路)を歩いてみます。標高80mほどの山ですが、山中には東西南北に古い径が交差しています。中には敷石の並びが残った径もあり、その昔は山の峠を越えて人の往来が多かったことがうかがえます。
   ・市成古道  楽山から四季が丘団地方面への古道(巡視路)や西尾町への古道です。
   ・市成古道分岐①  市成古道の分岐その1です。
   ・市成古道分岐②  市成古道の分岐その2です。




松江の山・三角点を歩く